2011年12月7日
尾道~本郷
12月6日の有年~三石までを歩き、すでに三石から尾道までは10月に歩いているので、西国街道~山陽道・尾道まで、京都から尾道までつながった。昨晩は尾道駅前のホテルに宿泊、
ホテル7時30分スタート。この先の旧道は国道2号を殆ど歩かないので車に悩まされずにすみ助かる、集落の中や田園の中の原風景を見ながら気持ち良い旧道を歩く。山陽道は国道に重なって歩くことが少なく非常に有り難い。
尾道 7時30分スタート
本郷 17時着
51.402歩 30.84km 2.246kl
本郷駅前の本郷グランドホテルへ宿泊
尾道駅近くから、尾道水道と尾道大橋の早朝の眺望

千光寺山山頂の尾道城

尾道駅前広場

駅前より少し東に戻り、昨日の起点を振りかえったところです正面左が国道2号線、右の商店街が山陽道その角に林芙美子の銅像があります

山陽本線の踏切を北側に渡り、すぐ西(左)に方向を変えて進みます。100m程進んだ尾道駅北口前の街道右に、石井耳鼻咽喉科の大正十二年建築の建物が残り現役です

坂を上っていきま、すぐ先の分岐は右の道を進みます

右の道を進んだ三軒屋の町並

右手の奥、民家の軒に 祠

続いて民家の軒と一体化した 祠

すぐ先右に 酒屋「吉源」創業安政元年の老舗で重厚な建物

銘柄は「寿齢」で尾道唯一の造り酒屋と聞きました。なかなかいい雰囲気の三軒屋の街並みです

そして右に宮本歯科医院があるところで、旧道は左にカーブします。

すぐ先信号交差点です交差点を横断して真っ直ぐ、左にサテイその北側を200m程進むと信号交差点があります。横断して直ぐの栗原川に架かる日小橋を渡ります

日小橋を渡った先の旧道が複雑です、間違っているか分かりませんが、かつては七曲坂と呼ばれた、海が七曲り坂の西の上り口辺りまで来ていたので西からの道は、七曲り坂を上り尾道宿に入っていた。今は新しい道が線路沿いについていて、旧道は忘れられつつあります、また民家も密集して立ち並びかつての旧道は正確に辿り歩くことはできないし、七曲りを偲ぶことも難しいので、私なりに下っていきます
橋を渡るとすぐ日比崎小学校を背にして 祠

橋を渡った正面に少し広めの道がありますが旧道でない

日比小学校構内を入り上るとグランドに出ます、グランドの北側を迂回していく道が旧道らしい。
小学校の正門横から傾斜のある道が続きます、私が歩いた時は敷地内を歩けましたが、現在は校庭の敷地内を歩けないかもしれません。
いろいろな問題がおこっていますし、まして歩く姿は不安を与えるかも。私はグランドの北の隅を歩き、西の出口から坂を下る道を進みました




西に下っていくと日比埼町20の表示に出ます。電柱に日比埼中学校の案内表示が北西への矢印になっています。中学校への北に上がるといけないので、南への道を下っていくこと170m程で十字路の手前右に
大窪寺があります


十字路を右に折れました

右に折れて十字路を振り返ってみたところ

右に折れて150m程西にすすむと

正面に天理教の建物の東側に出ます、そのT字路を左に折れたのですが

天理教の横にある明治八年の銘がある 常夜灯と祠

天理教の北東側の高台の杜に神社がありました 鳥居と天満宮 寛延三年(1750)の銘


元に戻り、天理教を正面に見て左に折れる南への道を100m程進むと

左にミラ―のある変則十字路に出ますので右に折れます

右に折れるとすぐ右に、尾道家電がありその前を西に進みました

すぐ先の十字路を横断して道なりに南にカーブします

細い道を緩やかにカーブをしながら進むと

ようやく山陽道に突き当たります。正面にNTT西日本尾道支店の建物・アンテナ塔が見えます

山陽道へ出たところで目印のテルミー美容室があります。ここが西からの旧道、七曲りの上り口で資料がなければ分かりにくいです

尾道市吉浦町4の表示があります。テルミー美容室の西側からの七曲り坂入口を見たところです

何とか抜けれましたが、途中の旧道は正しいかどうか自身がありませんが
ここから西への山陽道、すぐ左に山陽本線が走っています

少し先街道右の小高い所に

荒神社・稲荷神社

横の小社は 金泉寺

振り返ってみた街筋

手崎町に入ると右手に観音霊場の 祠

その先右にも観音霊場の 祠

左に友愛保育園があります

左に吉和分団器具庫と書かれた建物の前、蛇行するところ右の山肌に

岩をくりぬいた 地蔵尊と祠

街道らしい雰囲気の街並みを進んでいきます。街道は少し右斜めに緩やかなカーブ右に西手崎公民館があります

公民館の先で左にカーブする右の急斜面の袂に

大きな岩に並んで 白壁の地蔵尊

手崎町3 左にカーブして右に平野化粧品店を見て200m程真っ直ぐ進みます。広い道路を陸橋で越えて東元町に入ります。すぐに道は分岐しますが右に道なりに進むと右手に吉和小学校があります
小学校を背にして石造りの 祠

東元町20で十字路を横断する、吉和川に架かる茶堂橋も同時に渡ります

十字路の手前右に、同じく吉和小学校を背にして 茶堂大師の祠

橋を渡り上り坂の50m程先で右に尾道吉和郵便局があります、道に枝道がありますが道なりに西に進みます。郵便局から120m程進むと左に八幡神社の参道入り口の鳥居があります。鳥居を潜り参道を230m程入ると高台に

八幡神社

神社からの瀬戸内の景色が素晴らしい、遥前方にしまなみ海道の因島大橋が見えます

尾道水道


尾道市街地と尾道大橋方向

元の鳥居の前の街道に戻り吉和西元町の坂を250m程上っていきますと右に、どうえん吉和認定こども園があり、さらに150m程進むと尾道バイパス道路の側道に突き当たるので少し左に折れて右のバイパス2号線を陸橋で右に横断します

陸橋を横断して直ぐ袂を左に折れます

陸橋から右(東)方向

陸橋より右斜め後方の、今来た街道を見る

陸橋を渡り左に折れるが、高速道沿いの側道でなく分岐する右の道を進みます

150m程先で再び合流します。合流したところを振り返る。合流して重複せず道は分岐していますので右の道を進みます

右の道に入るところで角に

大人峠一里塚跡碑 かつて街道を挟んで進行方向右の塚は三原側で左の塚が尾道側の境にあった一里塚跡の付近は、大人峠

右にこんもりした山が見えますのが、鎌倉期から戦国時代にかけての 山城(318m)鳴滝城山跡 が見えます。

その先右に吉和分団器具庫がありその裏に 一対の燈籠と祠が二つ

峠より続く坂を下っていきますと左に 地蔵さん

地蔵の前で福地集落にはいります、蛇行して下っているが道なりにすすむ

右に福地公民館があります。福地バス停のまえから集落を振り返ったところ

福地バス停から真っすぐ南西に進みます。左から山陽本線が接近するところで、街道の左側の尾道市は終わります。街道の右側であった三原市木原町に入ります

左の山陽本線に沿って進んだ先で、左の木原踏切りに出ますので踏切を渡ると、国道2号線の木原町信号交差点に出て横断、南側(海側)を数十m右に折れて進みます

国道沿いに福地バス停のところで、国道より左斜めに入る旧道を進みます

瀬戸内海に浮かぶ岩子島が見えます

木原の細い山陽道

左のJA三原木原のところで、右からの国道2号線の木原町内畠信号交差点で合流します

右手国道と線路の向こう側山裾にある、巌島神社への常夜灯

鳥居の頭が見えています

常夜灯を見てすぐ先で、左斜めに入る旧道を進みます。木原町四丁目6の表示

すぐ先で道は右へ左と折れています
宿場によくある鍵の手道でなく、旧道が真っ直ぐであったが遮断されていますので迂回しています

50m余先の十字路で左に折れます

さらに数十mで右に折れる、折れる左角に清水化学があります

右(西)に折れて100m程で、川に架かる橋を渡ります 木屋4丁目4

橋から150m進むと十字路に出ますので横断して細い道を進むと、十字路右角にミラー

数十mで右に細い路地があり石碑が二基立っています。国道・線路の北の山の中腹にある、亀石神社への参道跡でないだろうか、今は真っ直ぐの道は無くなっている

すぐ先で、右からの国道2号線に合流します

合流点から、国道・山陽本線より北側を見ると、山麓に集落が形成されていて中に 観音寺が見えます

国道を50m程進んだ観音寺下信号交差点で旧道は右に入ります


信号交差点より50m程先で小さな川橋を渡りますが、ここで【寄り道】をするため、右に折れて100m余り西北に進み、そこで鋭角に右(東北)への坂を上り300m程行くと観音寺に出ます、かなりの迂回道です

真言宗観音寺
境内の鐘楼の横に、石造り五重塔が立っています。毛利元就の三男で三本の矢の一人、戦国武将の智将毛利隆景が竹原小早川家に養子に入り、沼田小早川家も相続しようとしたが、沼田小早川家の重臣の田坂善慶父子らが反対して、天文二十年(1551)父子とも殺害された。観音寺には子の頼賀の墓があり、田坂善慶の墓は三原市小坂町の稲村城址にありす
田坂頼賀の五輪塔の墓

境内からの瀬戸内の眺望が素晴らしい

元の街道に戻る、ガードの袂に 道標 「鉢ヶ峯虚空蔵一粁五00米」「尾道エ四粁五二0米」「糸崎三粁四四0米」


鉢ヶ峯(429m)を開いた万慶上人は大同年間の頃(806~808)この峯で修行した高僧。虚空菩薩像が祀られ毎年4月の第2日曜日の大祭には人々で賑っています

明石のバス停のところで左からの国道に合流します

すぐ先国道右沿いに 延命地蔵尊

暫く左の瀬戸内の海を見ながら国道を進みます

糸崎地区に入り下木原信号を越えると、左にローソンとGSがあります


左を見ると陽炎のように瀬戸内の島が見えます。昔、長井の浦から沖をみると佐木島のあたり夜明け頃、波間に火が燃えるのが見えたので、人々はこれを焚郎火(たくろうび)と名付けたという伝説があります

少し先で国道より右に入る旧道がありますので右に

右に折れたすぐ右手の山陽本線の土手に 六本松一里塚跡碑

一里塚跡の先で道は分岐しているが左の旧道を進みます

右は糸崎神社で突き当たります

糸崎神社
天平元年(731)に開創されたと伝わる古社。仲哀天皇・応神天皇・神宮皇后を祭神

境内に立つ 巨大な楠は樹齢500年以上といわれている 樹高約30m

鳥居の背後に建つ 神社神門 三原城内にあった、侍屋敷門でここに移築されました

境内にある 御調井(みつぎい)


糸崎神社前入り口に並ぶ 石碑

長井の浦 万葉歌碑
天平八年(737)6月、阿部継麻呂を大使とする遣新羅使の一行が長井の浦に船泊まりして作った歌の一つ 帰るさに 妹に見せむに わたつみの
沖つ白玉 捨ひて行かな

糸崎神社の前で国道に合流して数十m先右に
夜泣き松
玉垣の中に祠、松の古木の幹が祀られている。神功皇后の御船を繋いだ船繋ぎの松といわれている

夜泣き松のすぐ先、糸崎神社前信号で国道の下をトンネルで潜り、海側に出て国道の左側に沿った道が旧道
200m程進むと右山陽本線の北側に 観音寺が見えます

旧道を進んでいくと左に安藤酒店があります、その角を左に折れるのが旧道です

すぐ先で突き当たりますので右折れします

右折れして少し進むと左に小公園があるところで、前述の安藤酒店で分岐した道が右から合流してきます

合流した先、右に赤い屋根に覆われた 井戸・地蔵の祠が三つ

続いて右、山陽線を背にして真っ赤な祠の 子守地蔵

合流して右の山陽本線に沿って100m程進んだところの辻を左に折れます

左に折れた筋で100m程西に進みます

途中左に新しく建て替えられた 浄土真宗本願寺派光輪山憲徳寺

直ぐ先でミラーの立っている十字路に出ますので右(北)に折れます

十字路を少し左の入り江の方に入ると左奥に 祠

すぐに尾道糸崎港があります

ミラーの辻で右に折れて100m程進むと途中右に片山商店があります。山陽本線の線路沿いの道に合流します。街道はここで山陽線に遮られ消失しているので

左の青木陸橋で線路の北側にでて陸橋で北側に出て、国道2号線を暫く左に重複して進みます、少し国道を進んだ先右の高台に

糸崎天満宮 がありますが結構石段があるようです、ここから手を合わせておきます

その先国道に架かる歩道橋のすぐ先で道は分岐しますので、左の旧道に入ります国道をそのまま進むと、糸崎駅東信号です

分岐を旧道に入った少し先で振り返る

山陽本線糸崎駅前の街道、すぐ先で右からの国道に合流します

国道を重複して進むと右に三菱三原病院が見えます、すぐ先で小さな川を渡ると左にGSがあります、GSを越えたところで左に分岐する旧道に入ります

すぐ先の広い道を横断した先右に 稲荷大明神

左の山陽本線に接近して進むと、左に東町踏切があるので左に踏切を渡ります

踏切を渡った左に 祠 があります祠を左に見て右に線路沿いに少し進みます

その先で国道2号線が左にカーブしてきて、その高架下を潜り線路沿いの道より左に分岐して平行に進む旧道に入ります

この辺りがかつての 三原城の東惣門跡

城下の旭町の街並みを進みます

右に 大師堂

やがて右から前述の山陽本線に沿った、浮城東通りが右から合流します。信号交差点でまず山陽本線の高架下を潜ります

そしてすぐまた山陽新幹線の高架を潜り北側に出ます

新幹線の高架手前右に お堂

山陽新幹線のガードを潜ると右からの道路と合流します

合流したすぐ先右に 天照皇太神宮
伊勢皇太神宮の分霊とのことで、規模は小さいが戦国期の小早川隆景の水軍との関係も深く庇護されてきた由緒ある大神宮

この辺りから【三原宿】に入ります
三原宿は三原城下にあり、小早川氏・福島氏・浅野氏(広島藩の支城)と引き継がれ明治維新まで続いた、宿場の街並みは和久原川を境にして東町と西町に分かれていた。本陣は東町に置かれていたが、旅人は城下町で警備も厳しく泊まることを避けていたようで、また商業も限られ尾道宿に押されていたようです。三原の夏は8月の「やっさ祭り」で最高潮に達する、
みたかきいたか 三原の城は 地から湧いたかサーマヨ 浮城かヨ ―――――― で始まる 名物の蛸を食べて踊る、小早川隆景の築城を祝って始まったといわれるから450年の伝統、隆景は毛利元就の三男として生まれ12歳で小早川家に養子に入る、次男吉川元春とともに「毛利の両川」として本家を支えた。三原城(浮城)の築城は永禄十年(1567)関ヶ原の戦いの33年前になる。その後は江戸時代の一国一城令を特別例外として、広島浅野藩の支城として明治維新まで続きます
私は、智将小早川隆景が、ことのほか好きで時間の許す範囲で三原の城下を【寄り道】して回ります
天照皇太神宮より50m程先右手に 龍怒神社(熊野神社) の参道があります


権現さんと呼ばれ親しまれてきた。元和五年(1619)紀伊より浅野忠吉が三原城主と入府した時、熊野新宮速玉大社の御分霊を勧請しここに祀った。

元の街道に戻りすぐ先で街道は左にカーブします。ここでこの辻の北東にあるお寺を真っ直ぐ北に進んだ先右手に石段がある参道

臨済宗松壽寺
貞治四年(1365)の室町時代に臨済宗昌寿寺として創建された、永正八年(1512)この地に移り、臨済宗松壽寺と改宗して現在に至る



参道を下ってきたところからの松壽寺の全景、立派な大きなお寺です

下ってきたところに 浄土真宗本願寺派専福寺

松壽寺と熊野神社の間に 浄土宗極楽寺
嘉禎三年(1237)創建、本尊阿弥陀如来立像。境内墓地には本能寺の変で信長とともに討死した湯浅甚助の墓や志賀直哉の暗夜行路のモデルのマツ婆さんらの墓があります。
極楽寺山門 明治十一年三原奉行所の門をここに移築しましいた

本堂 江戸時代中期の創建

松壽寺の北側には 観音寺


観音寺の西側に三原赤十字病院の北東に 浄土真宗本願寺派實林山浄楽寺

この前の筋、古たて町筋の石柱が立つ

左に折れる辻まで戻るとすぐ右に 胡神社

西への東町の街並みを進むすぐ左に、豪壮な歴史を感じる酒造業の 酔心本店の建物



西への街並みを進みます三原東町郵便局前信号交差点を横断します

信号を越えて少し進んだ左、浜之丁公民館内に 胡神社


胡神社の傍に 祠

胡神社の街道を挟んだ向かい(北)側に 浄土真宗善教寺

同じく街道右側に 富田酒店の大きな建物があります、旧山科屋作兵衛方が本陣 を勤めていたと伝わる

本陣跡のすぐ西に和久原川で川に架かる神明橋を渡ります。ここまでが旧宿場の東町で橋を渡ると西町に入ります

神明大橋より右を見ると、旧本陣山城屋跡、現富田酒店の背景にこんもりした山が桜山(175m)

神明大橋から西の西町の街並み

神明大橋から川を見ると、石垣が三角形に築かれ川の中に突き出している、これによって川の水の流れを弱めるとともに、流れの方向を変える工夫を凝らしている。流れが強く当たる大石には、それぞれに穴をあけ、鉄棒を通して連結してあるそうでいろいろな考えが凄いです。




神明大橋西詰交差点を越した右に 恵比須神社

その先右に 広島大学付属三原幼稚園・付属三原中学校と続く両校の間の角に
三原城東大手門跡の石碑

振り返ったところ

さらに西へ進み左には三原城の石垣が見えてきます

その先で街道は突当り左に折れます

左に折れた左側の三原城は改修中です

三原城跡は山陽本線によって分断されています、左に折れて100m程で右にお茶の平野園のところで公園に突当り右(西)に折れます
三原城の天守台の石垣
日本一の規模を持つ天守台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さ。三原城がつくられた1567年より約十年後に信長が安土城を築いたとき、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に天守閣が築かれた。三原城築城時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと伝わる。山城から平城に移る時期であった。
この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜いていた。余人がまねのできないといわれた「アブリ積み」という特殊な工法は、古式の石津形式を四百年経た今日まで伝えられている。
三原城の天守台へは、山陽新幹線の駅構内二階から入る。本丸跡をJR山陽本線が貫き、新幹線も加わり、城跡の中に三原駅がある状態です。貴重な遺構をいとも簡単に破壊する近代の工夫のなさ、昔の人に笑われそうです。
三原城は、瀬戸内水軍の掌握を目指した小早川隆景が心血を注いで築いた城。瀬戸内海の三原浦に浮かぶ大島・小島の二つの島を石垣でつなぎ、東西900m、南北700mの広さで、北から天守、本丸、二の丸、三の丸、32の櫓、12の城門を配置していた、舟入りなどの軍港の機能も兼ね備えた名城「浮城」であった。天正十年(1582)新高山城から本拠をこの地に移し城下町の整備に努めた。その結果、鋳物師や刀工、三原塩で知られていた三原浦は、城の東西に商人町、北に寺社が配された城下町となる。築城当時は城の南側は海であったが、埋め立てられ商店街に変貌した。駅の南東200m程のところ三原市福祉会館の東側に、舟入り櫓・舟入り跡が残っています。
突当りの公園内には 小早川隆景の銅像

この辻で西に進むが、三原駅南側を少し回ってみます

三原駅南前

石垣に沿って三原駅の南側方向に出ます

聖トマス小崎像
豊臣秀吉のキリシタン弾圧において、長崎で処刑された殉教者26人の中の14歳のトマス小崎の像。
長崎へ送られる途中、三原にて伊勢の母マルタに書いた手紙が処刑後に父ミゲルの襟元から発見され、ローマに保管されて、日本人26聖人として世界中の人々に崇められています。
手紙の内容は、私のことも父上のことも心配なきように、天国の全き幸福を失わぬよう努力してください。人からいかなることを受けようとも耐え、すべての人に大いなる慈悲をかけられますよう。陰暦十二月の月二日安芸の国三原城にて。14歳でこのような素晴らしい文章、短い命を散らし涙が出てくる。


船入櫓跡
三原駅の南東200m程行くと五番櫓・舟入櫓の石垣が見えてきます。石垣の高さ約7mで、下には潮入りになっています






三原駅の南側、かつて城内以外は海だったので、今は埋め立てで商店街や新しい町に変わっているので史跡は前述以外にはほとんどないです
見学も終わり元の駅北の西に折れる小早川隆景像の辻に戻り再出発本町の通りを進みます

すぐ先右奥に 正法寺 右に三原本町郵便局

本町の街筋も
古民家が残り情緒があります

右手に「ヤッサ饅頭本舗」があったので饅頭を買って食べた美味しかった

店の手前の筋を右に折れて【寄り道】をします宗光寺への参道筋を250m程進みますが、途中右に
真宗大谷派明真寺

徳川家康宿泊所 一株院跡

祠

参道突当りに 曹洞宗宗光寺

宗光寺山門(重文)
元、小早川隆景の居城であった、本郷町の新高山城の城門で三原城に移る際に移築されたと伝わる。桃山風の豪快な造り門隆景が三原城に移った際、共に移築した寺院も多く、宗光寺・香積寺・正法寺・成就寺・中台院(以上本町)、大善寺・寿徳寺・釜山寺(以上西町)、極楽寺・観音寺(以上東町)など


宗光寺七層石塔婆
高さ250.3㎝の花崗岩製。鎌倉時代後期永仁頃(1,293~99)の大工心阿の作

福島正則の養子正之・三原浅野忠長の墓があります

宗光寺より西に100m余り進むと 大島神社への鳥居

神社の北東すぐに 日蓮宗妙正寺

三原浅野氏の菩提寺として延宝二年(1674)米田山麓に創建され、享保八年(1723)現在地に移る。現在も本堂・庫裏・鐘楼堂・最上殿・山門・墓所門と建物が残る貴重な遺構

本堂

三原城主浅野家歴代の墓
三代忠真から十二代忠英まで(十一代忠助除く)の歴代の墓及び浅野鉄馬の墓、十二基が並ぶ



銅鐘
かつては、坂の西側にある鐘楼堂に吊るされ「時の鐘」として親しまれた梵鐘

庫裏
天正四年(1567)に鋳造された、三原の鋳物師として名高い竹原屋初代吉井信正の作

宗光寺からの三原の町

宗光寺より南西隣に 大島神社と厳島神社


神社の参道を南に下っていきます

宗光寺より西北には、浄土宗大善寺があり新高山城麓から移築され、小早川氏や三原浅野氏の夫人の帰依を受けました。本尊の木造阿弥陀如来立像は阿弥流の秀作で、14世紀前半の像があります(拝観は事前予約が必要)。大善寺の北側には寿徳寺、東側には香積寺、南側には浄念寺、正明寺が集まっています。時間が足らないので回れなく残念
街道に戻り西へ少し進むと、25号線と交差する甲山通り信号交差点を越えます

暫く西町1丁目の静かな街並みを歩きます

右手に 順勝寺山門
三原城内の御作事奉行所門を、明治十年に移した貴重な遺構で、天正年間(1558~92)の作と推定される

浄土真宗順勝寺

順勝寺の北側山腹には 釜山寺・万福寺 があります

歴史を感じる街筋の所々にこのような、昔懐かしい路地があります

三原西町郵便局が右にあります、その前歩道に
三原城 西惣門跡碑


すぐ先右に三原八幡宮参道入口があります。街道向かいに 西之宮 壱里塚跡碑


参道入口左に 祠が二つ

右(北)180m程参道を入っていくと 三原八幡宮




三原西町も終わり、三原宿もこの辺りが西の端だろうか
神社より街道に戻り、少し左にカーブしいた先で西野川に架かる新宮浦橋に出ます。橋を渡らず街道は右に折れて西に進みます

左の西野川に沿って180m程進むと

右に法常寺の参道入口があります、街道より離れ右の参道を150m程入ります

重厚な構えのお寺


境内に 小早川隆景公 小詞


本尊は華厳釈迦如来坐像、元は天台宗で東日山法輪常転禅寺といって竹原小早川氏の菩提寺であった。
天文八年(1539)小早川興景が曹洞宗に改宗し、小早川隆景が竹原小早川に養子に入り、さらに沼田小早川本家も継いだ、天文二十年(1551)高山城に入城、翌年新高山城に移った時に本郷の舟木に法常寺も移したと伝わる。
その後、三原城の築城(1567)に伴い、西の出城を兼ねて現在地に移ったとされている。隆景が慶長二年(1597)六月十二日三原城で逝去の際には、この寺で荼毘に付され盛大な葬儀が営まれ(戒名:黄梅院殿三品泰雲紹閑大居士)、遺骸は沼田小早川家の墓所である米山寺に葬られた。(米山寺の墓所には萩往還の歩いた時寄りました)

本堂

参道を戻り元の街道入り口へ少し進むと左に 大師堂


大師堂前の街道から街並みを振り返る

市立西小学校前信号交差点を過ぎて200m程先で左にカーブします

カーブする右に石段の参道があります 八坂神社

左にカーブしたすぐ先で道は分岐します、右の道は三原バイパス道路を潜り街道は左の旧道です

すぐ西野川に架かる梅観橋を渡ります

梅観橋の手前の川沿い右、西野消防分団格納庫の隣に 小堂

堂内には沢山の 石仏 が並んでいます

梅観橋の先は南に直線の道160m程進むと道は突当りの分岐に出ます、左側に田辺薬局があります、その前を右斜めに進みます

右斜めに折れる道筋、右に三ゆう会館があり、170m程進むと正面に三原バイパスの高架がありますので高架の手前で左に折れます、右の三原バイパスの高架道路の側道を暫く進みます。右の三原バイパスに沿って200m程先で山陽本線の高架を潜りすぐ先で、左からの広い道路に出会う頼兼信号交差点に出ますので横断します

交差点左角に交番があります。交番の前の道を220m程直すると頼兼公園の北角に出ます、その角で道は分岐しますので左に直角に折れます

直角に折れるところ

直角に折れた50m程先の十字路を右に折れます。十字路右角に浜田瓦センターがあり

右に折れて80m程先で道なりに直角に左に折れます(要するに公園の東側を回り込んだ)

左に折れて50m程で学園北通りのバス通りの道路に出ますので右に折れます。右に折れる角に、はかたという店があります

八坂神社からの旧道は、三原バイパス道路や山陽本線、区画整備等で旧道は失われていると思います。
右に折れて、右奥に頼兼集会所があり緩やかな上り坂です。右に老人ホームあすなろ苑があり、左には宮浦中学校が続きます

坂を上り切ったところ、左から広い道路が合流してきますが道なりに南西に進みます。この先下りに入る、合流した左には県立広島大学三原キャンパスがあります

大学の前の道、両側に備後と安芸の国境石があります
街道の両側にある 国境石

いまは開発されて峠の面影はないが 仏ヶ峠 といわれました 「従是東 備後国 従是西安芸国」

県立広島大学三原キャンパスを左に見て、仏ヶ峠より下ります

峠の頂上あたりを振り返る

峠より下りきると左からの新道と合流して右に折れると50m程で344号線の海岸線を走ってきた広い道路に合流します

新道に合流する右角に 祠


すぐ先の344号線の定量大橋北詰信号交差点で右に折れて344号線を重複して歩きます。交差点を右折れせず真っ直ぐ行くと、沼田川に架かる定量大橋を渡ることになります

暫く344号線を進むと、正面に三原バイパス道路の高架が見えてきます。344号線を左に分けて、右に入る道を進みます

その先で、右から頼兼トンネルを出てきた三原バイパスの高架を潜ります。
高架を潜った先は土地整備がされており、旧道は完全に消失したようですので西への新道を進みます。この付近にかつて 木之浜一里塚跡 があったようですが痕跡がありません

高架を潜って直ぐの一筋目の道を左に、そして左へ150m程進みました、右にJAがあります一筋目を右に折れました

右に折れて70m先のT字路を左に折れて西へ進みました。左角に池上工業があります。もちろんこの道は旧道でないと思いますので、南の344号線でもいいのですが、車が多いから私は歩きませんでした

新倉地区を西への新道を真っ直ぐ300m程進むと、その先すこし緩やかに蛇行するところ左にホテルアクセスがあります。
この辺りから旧道は復活しているのでないかと勝手に考えます

さらに150m程先、右のプティオーレのところで右に入ると山陽線手前に 厳島神社


神社の杜

さらに緩やかに曲がりながら180m程先で、本谷川の堤の下に突当ります、堤道に上りたいが草で無理なので、少し左に折れて国道2号線の新橋信号手前まで100m程迂回して堤防に上り、鋭角にUターンして本谷川沿いの道路を北に進みます

160mほど本谷川の東側の道を北にすすむと山陽本線の踏切に出ますので渡ります

踏切を渡った先の北への川沿いの真っ直ぐな道、踏切を渡って100m弱の辺りに、前述のホテルから厳島神社を通り、西北にすすんで山陽本線の線路を斜めに渡り、延長線上のこの辺りにかつての旧道が右から来ていたようです。さらには前述の三原バイパスの高架下辺りからの延長線上になります

いろいろ想像すると面白いです。川は北に進まなければ橋がないので、列車に注意しながら線路沿いで対岸に渡りました。線路沿いの道は旧道でないが旧道は田畑で消失しているので結果的にこの道を進みます

対岸に渡り少し鉄塔の辺りまで北に歩いてみます、完全に東西とも旧道は消失しています

線路沿い下の畦道を歩いてきて、振り返ったところで、この辺りに旧道が合流していたと想像します

もう少し線路沿いの道を西に進むと、道が突き当たりますので左の踏切を渡ります、すぐに国道2号線の七宝橋北詰信号交差点に出ますが

その手前の道を右に折れて100m程で、右の伯母ヶ崎第一踏切を再び渡ります

踏切を越えて100m程で左へ、川に架かる橋を渡り西へ

橋を渡った先の街道の筋暫く田園と新しい住宅の中の街道を進みます

長谷集落を進んでいくと右に、長谷保育所・三原市人権文化センターがあります

左に山陽本線が接近します

集落を進むと左に八重神社の鳥居があり、街道を挟んで右に神社


神社から少し進むと街道右に 西法寺が見えます

すぐ先、長谷3丁目で左の山陽本線と国道・仏法寺川を越えることとなります。まず左の山陽本線を長谷宮第五踏切でJR線を越えます。越えたところで階段を上り国道に出ます

国道を横断しますが、2号線は同じように左にカーブして仏法寺川に架かる長谷橋を渡ります。北側の歩道橋を渡ります。橋を渡らず仏通寺川を左に沿うには県道344号線です

長谷橋から右(西)の眺め

長谷橋の歩道橋を渡りすぐ先の国道2号線の本市橋信号交差点手前で国道を左に分け右の道に入ります。仏通寺川に沿って進みます本市橋交差点の左への橋は、沼田川に架かる本市橋です

川沿いの旧道を進んで長谷橋方向を振り返る

暫く堤防道を進みます

やがて道は分岐します、右は堤防沿いの道で、左への道を進みます。チョットした数軒のホテルがあります

左に三原重機長谷工場を見て国道2号線に合流します

三原市本郷町に入ります

国道に合流して左に沼田川を見ながら2㎞国道を坦々と進みます。右手に伊藤ハム広島東営業所があります

本郷町は三原市と合併して三原市になっています。右に空港と史跡の町本郷の大きな看板が立てられてます

本郷町本郷に入り沼田川に架かる納所橋北詰信号交差点が見えます

沼田川に架かる納所橋

曹洞宗東盧山米山寺
当初計画ではここから片道2㎞入ったところに、小早川家歴代の墓所がある米山寺(べいさんじ)があります。小早川隆景フアンとして尋ねる予定でしたが時間的にどうしても無理なようで諦めました。暫くタクシーが来ないか待ったがダメでしたが改めて必ず来たいところです。
沼田小早川茂平が嘉禎元年(1235)に建立した氏寺。山門の東側に20基の宝篋印塔が前後2列に10基ずつ整然と並ぶという小早川家墓所。すべての宝篋印塔が基壇から相輪まで残存し、鎌倉時代から安土桃山時代にかけての造立されたものです。後列左端の最大の宝篋印塔は(国重文)の塔身には、「大工念心元応元年(1319)巳未十月日 一結衆敬白」の紀年銘がある。念心は多くの石造物を残した名工である。また前列右端の宝篋印塔が小早川隆景の墓(県史跡)といわれている。隆景は慶長二年(1597)65歳で三原城にて生涯を終えたが、米山寺にも、絹本著色小早川隆景像(国重文)があります。文禄三年(1594)の銘、毎年三月末頃公開されます。(いかにも見学してきたようで恐縮です、広島県歴史散歩の押し売りです)
思っていれば行けるもので、後日、萩往還を歩いた時に回りました。
納所橋の北詰袂に 道標 「川向米山寺道」


納所橋北詰から国道沿いの北側の道を100m程進み北西に方向を変えて振り返ったところ

右に方向を変えたすぐ先右に 地蔵尊が三体

すぐ先右手山裾の高台に 吉国神社

その先で小さな川に架かる橋を渡ります
その先で地方道に出るまでの間の旧道は道路整備のため消失しているようです

川を渡ると左に東本通第一公民館があります、そこで道が分岐しているので、右の道に入るとすぐT字路となり左に折れます。左に100進むと十字路に出て右に折れる、十字路左角に本郷郵便局があります。十字路を右に折れて50m程進むと広い交差点に出ますので、左に折れます。右にスーパードラッグひまわりをみて200m程先、地方道の本郷南5信号交差点に出ますので横断します。交差点右角にセブンイレブンがあります
地方道を過ぎると【本郷宿】に入ります
本郷宿は三原城下から二里半、四日市(西条)宿から六里のところにあります。
宿通りの北側のJR山陽本線の北側に、本陣・御茶屋の旧家が残っています。宿の中程に恵比須神社があり、ここに高札場がありました。宿の西端には沼田川があり上流には川を挟んで2つの古城、高山城と新高山城の古城山が見えます。沼田川が増水した時は渡し止めにより旅人は難儀をしたようです。渡し場跡は現在の本郷橋の20m程上流にあったようです。
古くから沼田川流域は豪族の沼田氏の拠点であったが、平家軍であったため源氏に敗れた。源氏の土肥一族が治めることとなる。小早川氏はこの土肥実平の子孫で本郷を拠点とした
右に山本化粧品店を見てすぐ先右に 浄土真宗本願寺派佛念山西念寺


西念寺の向かい(街道左) 地蔵尊 天保六年の銘

その先で右に緩くカーブする十字路を越えますとその先右に、山田鍼灸院の西隣に
道標 「佛通寺道」

臨済宗御許山佛通寺
臨済宗佛通寺派の本山、本尊は釈迦如来、県内屈指の紅葉の名所。小早川春平の懇請を受け愚中周及(大通禅師)が応永四年(1397)創建、長い歴史と沢山の文化財を有する山陽地方屈指の名刹。毛利氏・小早川氏の帰依を受け最盛期には塔頭88、西日本に末寺約3000寺に上ったという。応仁の乱以降寺勢が衰えるが、小早川隆景時代に盛り返し、以降火災などもあり変転を繰り返した、明治に入り天竜寺派から独立して佛通寺派として本山として現在に至る。北にかなり入らなければいけないので寄れません
道標前の宿場の街並みを振り返る

宿場の西への街並み

宿場の中程右に 恵比須神社

恵比須神社の西角を右に100m程入っていくと小川沿いに広い新道ができている、その角に
道標 「古高山城小早川城址」 北に見える山


北側に山陽本線がありすぐ右には本郷駅。左に少し折れると広い交差点になっています、左角一帯には三原市本郷生涯学習センター・図書館があります。その交差点を右に折れ踏切を渡りすぐ先で左に曲がったところに

本郷宿の御茶屋本陣跡
当時の建物でないが石組や塀の面影が残る

本日はここで終了17時着、すぐ近くの本郷駅前の本郷グランドホテルで宿泊、近くにあるので今日移動が少なくは助かる、30.48㎞とよく歩きました。


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